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酒の是非については、人それぞれに自論を持っており、酒の好きな人にとっては「酒は百薬の長」といい、酒の嫌いな人にとっては「酒は百害の長」といって酒の害毒を強調するものです。 飲み始めた若い頃は、酒についても自分自身についても、よくわからないまま、ただ、一方的に酒に対してチャレンジしていきます。若さのエネルギーをぶつける対象でもあり、酒と上手に付き合うような余裕などなかったものです。 酒を飲んでいると思っても、いつも酒に呑まれて状態で、しらふになると自己嫌悪に陥ったものです。 お酒は呑もうとしても、コップ酒で何倍もというわけにはいかず、少しずつ盃に注ぎながら、差しつ差されつつ呑むものですが、それでも、毎日呑んでいると、長い年月には相当の量になっており、このために体を悪くした人は数多くいます。 昔から酒は「百薬の長、憂いを払う玉箒(たまほうき)」などとも言われ、気分転換に役立つだけでなく、血液循環も促進し、確かに健康になにがしかの効用があることは間違いありませんが、何ごとも適度な分量というものがあって、それを過ぎますと、健康増進どころか、最後には家産を傾けたり、体調を悪くするのが世の常です。 古文に「甚だ(はなはだ)愛すれば、甚だ多く費ゆ(ついゆ)」とあり、最後は命が費えます。あるいは、社会人になり人生経験も少し積んできますと、人とのつき合いを意識するようになり、酒を飲むということも、つき合いの道具の一つとして利用する術も覚えてきますが、凡人の交わりは甘酒のごとくで、利害で集散することが多いです。 しかし、退職をして仕事の世界から離れていく年代になりますと、酒とのつき合い方も次第に変わってきます。幅広く活動する必要もなくなってくるので、酒と向き合ってつき合うという落ち着きが生じます。酒そのものと自分だけとのつき合いです。じっくりと腰をすえて時間をかけながら会話を交わす間柄になります。 そのような心境になってきますと、当然のことながら、お酒は量ではなく、質が問題となってきます。 上質な酒を少量というのが原則であり、それが成熟した大人の進んでいくべき路線ではないでしょうか。上質なものだけを相手にする。上質なものを選ぶことができるためには、味利きにならなくてはなりません。 後は、ゆっくりと自分の好きな酒を少しずつ味わいながら、少なくともその間は、理不尽な政治や経済の世界、それに次第に皆が自分勝手な振る舞いをする最近の傾向を忘れることができます。その小さな幸せの価値を味わっていればいいのではないでしょうか。 |
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